なぎさ(山本文緒)

 憧れていた海はなんだか想像したものと違っていた。もっと晴れやかな気持ちになるに違いないと思っていたのに、大きな心もとなさを寄越しただけだった。  引っ張られて連れ去られることは恐い。恐いけれども行ってみたい気にもなる。自分が住んでいるこの土地は、そういう人間の弱くてやわい気持ちが流れ出していかないように、かっちりせき止めているのかもしれない。高いところにできた水たまりのような故郷に、確固たる安心感を持ったのはそのときが初めてだった。どこへでも行けるという可能性の雲に乗るよりも、ここで生きると両足を踏みしめる幸福を知った瞬間だった。  だから生まれ育った故郷を出ることを決断するには勇気が要った。出て行くことを告げると、両親は私をなじった。知り合いという知り合いは山々にがっちりと根ざす樹木のようになっていて、表面上は「遊びに行くね」と笑顔を見せても、眼の底は冷ややかだった。  森をつくる一本の樹だった私たちは、せっかく張った根を引き千切るようにして長野県を出た。縁もゆかりもない海辺の町へゆくために。